2024年6月29日土曜日

母が永眠いたしました

グリーンカードが手元に届いたというブログを書いたのが6月11日でした。 
この日の夜、ディナーを終えたジムと私はリビングで映画を観ていました。 なぜだか手元にiPadがあってラインのメッセージがポンと飛び込んで来たのです。

姉からのメッセージで「お母さんが亡くなった」と。

悲鳴に似た声をあげた私。 震えてました。 あまりに突然だったので。 

老人ホームから連絡が来て今兄が駆けつけていると・・・・。


ジムは直ぐに映画をストップして私の側に駆け寄って肩を抱いてくれました。 
私は震えながら、飛行機、飛行機の手配を・・・・と呟いていましたが、ジムは今直ぐでなくても・・・・と私を落ち着かせようとしてくれました。 あまりにも突然だったせいか、涙は出てこないのです。 震えてましたが・・・・・。

数週間前に幼馴染の同級生を亡くした私は、彼女が息を引き取った日と告別式の日にちを思い出していました。 そうか、告別式とは亡くなった日から1週間居以内に執り行われるものなんだろうな? ・・・・そんな事をぼんやり思いながら、一刻も早く日本に行かなくちゃ、そう思いました。 兄が1人で大変な思いをしているのでは? そう思ったからです。

直ぐに飛行機のチケットを検索しました。ただ翌日の飛行機だとものすごーーーく高いです。

ジムはこういう場合、つまり身内に不幸ができて、直ぐに飛行機で飛ばなくてはならない場合の特別価格があるはずだっていうのです。 え? そんなの聞いた事ないけど・・・・? 英語でBereavement fare というそうです。

この単語、発音も難しくて、とても電話で聞けそうになかったので、ジムにお願いしました。 エアラインに直接電話して、そういう特別料金があるのかどうか聞いてもらう事に。

まずはユナイテッドに電話をしましたが、数年前まではあったそうですが、そのシステムは無くなったと。 
次、デルタ。
デルタエアはこういう場合の特別料金なるものがあるって! 

電話口でジムが全て手配してくれました。 翌日の飛行機です。 もう直行便は取れなくて、シアトル経由です。 ウェブ上で見るとサンフランシスコ、シアトル、羽田で3000ドルします。 ですが、このチケットを2100ドルにディスカウントしてくれました。出発が早朝5時50分なので、家を夜中の2時半には出なくてはなりません。
条件は、亡くなった人との関係、老人ホームの名前と住所 これらを電話で伝えるだけでした。 特に死亡証明書とかを提出しなさいっていう条件はありませんでした。

続いてジムの飛行機も手配しました。 こちらは私のチケットより300ドル高かった。 なぜなのか? 元のチケットの値段が高かったのか?
とにかくジムは黒のスーツをレンタルしたり、ロキちゃんを預けたり、色々やらなくてはいけない事があったので私の出発の2日後に日本に向けて出発する事に。 ジムは告別式の前日に日本に到着です。


私はどのくらいの日数日本に滞在すべきなのか? ちっとも検討がつかず、ですが、デルタエアのこのチケットは変更可能だというので、とりあえず2週間の日程で帰りの便を手配しました。 ジムは3泊4日の弾丸飛行です。

母が息を引き取ったのが日本時間の6月12日の午前11時半頃・・・・・。この日の朝、脈がみだれて、朝食を食べなかったそうです。 ですが、脈が元に戻ったのでランチは食べられそうだというので、ダイニングまで行き、ゼリーを2口食べさせてもらった、その後・・・・・。
気がつくと息をしていなかったと・・・・・。

ゼリーを喉に詰まらせたわけでもなく、車椅子から転げ落ちたわけでもなく息が止まってしまったと。


最後に会ったのが今年の3月でした。 99歳の誕生日を姉と一緒にケーキを食べて祝いました。 来年の春は家族を呼んで、100歳の誕生日をしようねって約束しました。 

2017年の5月からこちらの老人ホームにお世話になっていた母、7年間病気らしい病気もせず(コロナには感染しましたが、無事に回復)元気に過ごしていました。 最期も病気ではなかった。 ただただ老衰として身体の機能がストップしたのです。
こんな最期を迎えられる人はそう多くはないでしょう。 

母が苦しまずに天国に行けた事が何よりです。 ただ、ありがとう、の言葉を直接言えませんでしたが。

告別式は家族葬で10名のみのお見送りでした。 エンディングノート、母と一緒に泣きながら書き込んだのですが、その大事なノートが行方不明。 ただ、お棺の中に何をいれてほしいですか? という問いに母が「私が作った動物達を一緒に入れて欲しい」と言っていたのを覚えていた私は老人ホームの部屋に飾ってあった手作りの人形と動物達をお棺の中にびっしりと詰めました。 
これなら寂しくないね! と言う程に。

告別式の後は続いて初七日の供養を、そして引き続き出棺して焼き場に移動して荼毘に伏せました。 あっと言うまに全てが終了です。
初めての仏式の葬儀に参列したジムは時差ボケの中、着慣れないスーツを来てさぞ疲労困憊だったと思います。 ですが、ちゃんと私の連れ合いとしての役を果たしてくれました。 涙がでる場面では必ず隣に寄り添い肩に手をまわしたり、一緒に長い箸を使ってお母さんの焼き上がったお骨を骨壷に収めたりと・・・・・。 カルチャーショックを受けたんじゃないかな? 

翌日は何も予定がなかったので、ジムの慰労を兼ねてなにか美味しいディナーでも? と考えた私。椿山荘で「蛍を鑑賞できるディナー」というのをみつけ、一緒に出かけました。 蛍はピークを過ぎていたので、いっぱいは見られませんでしたが、薮で数匹が光っているのが見えました。 バッフェのディナーも美味しかった。 

翌日、ジムは町田のホテルをチェックアウトして、すぐ側の町田バスターミナルからリムジンバスに乗り、羽田へ。 帰りもシアトル経由でサンフランシスコへ。 ロキちゃんを預けていた犬舎にお迎えが間に合わないので、息子に頼んで迎えに行ってもらったようです。

ジムがアメリカに戻った後、私は引き続き同じ町田のホテルに滞在して告別式からちょうど1週間後の日曜日、お寺にお願いして49日の供養と納骨を前倒しで行ってもらいました。 私がアメリカに戻ってしまうから、という理由でです。

天台宗の山口家のお墓のお墓は父が亡くなった時に建てたもので、30年間、父は1人だったわけです。 長かったね・・・・。  そう思うとすごい事だって思います。  父が亡くなった後の母の生活は洋裁が全てでした。 布おもちゃというサークルに参加して、次から次へと布をおもちゃを作っていました。 お友達もたくさんいたようです。 ボランティアで布おもちゃを作っていたので、市から表彰された事もありましたっけ。 

兄の学校の卒業式のガウンを縫ったり、雑巾を縫ったり、色々貢献してました。 

母の老人ホームの部屋を片付けした私は、宝石箱の中のジュエリーや最後につけていた指輪などを手にとって、なんだかちょっと悲しい気持ちになりました。 母は高価なジュエリーを持っていなかったな〜って思ったからです。 
洋裁をする時の器用な母の指は太くてずんぐりむっくりで、指輪が似合わないって何時も自分で言っていました。 だからいつだったか母の日に兄と相談して、『ダイヤの指輪より指抜きの似合うお母さんへ』とメッセージをつけて18金で特別な指抜きを作ってもらいプレゼントしたのです。
それだけです、私が母の形見として貰いたいと思えたのは。 母が3度のご飯より好きだった洋裁。 その時に使っていた指抜きです。 何よりの母の肩身です。

数えきれない程の私の服を作ってくれました。私がアメリカに行った後、頭が痛くてどうしようもなかった時、国際電話で、「かわいそうにね、できる事なら変わってあげるのにね。。。。」 と言ってくれた母。 一時帰国を終えアメリカに戻るとき、リムジンバスのバス停まで何時も見送りに来てくれて、何時までもバスを見上げながら手を振っていた母。

私を産み、育ててくれた人、お母さん、ありがとう。 天国でお父さんに寄り添っていますように。


最後に会ったのが2024年3月27日でした。







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