もっとその時の話を聞いておくべきでした・・・・・。
母は親から大学に進学する事を薦められていたそうですが、それが嫌で洋裁の道を選んだようです。
紳士服作りを学んだ母は本当に洋裁のプロでした。 私が生まれる前には父のビジネススーツ、幼い兄にはボタンダウンのシャツやらショートパンツやら、作っていた様です。
ですが、約7歳はなれて私が生まれると、母の洋裁への情熱は全て私に集中しました。 覚えている限り、父の服や兄の服を作っている母を見たことがありませんでしたから。
幼稚園生だった頃に母が作ってくれたワンピースやスカート、今でも覚えています。 年に一度のピアノの発表会でも母は気合を入れて舞台衣装を作ってくれましたっけ。
母の着せ替え人形だったのです。 スパンコールを縫い付けたワンピース、フリフリのついたスカート、母にとって私の服作りは生き甲斐そのものだったと思います。
装苑とかドレスメーカーという洋裁の月刊誌を良く母は買っていました。 そこには子供服の写真とその製図方法が載っていました。 その月刊誌を見て次はどれ? って決めてました。 つまり製図から母はやっていたって事です。
小学校3年生の時に世田谷から相模原に引っ越しました。 で、家の近くに東京のデパートに下ろしたりする子供服を縫っている小さな縫製所があって、母はそこでミシンのパートをする事になります。 9時から5時まで。 歩いて5分もかからない所だったので、お昼休みは家に戻ってランチを食べ、また仕事場へ。
小学生だった私はランドセルを背負ったまま、家ではなく母のいる縫製所に帰る事もしょっちゅうでした。 母が糸を切ることなく次から次へとミシンをかけるので、私は母のミシンの隣に座り、糸きりバサミを握り糸切りを手伝い、午後5時になるのを待ちました。
その縫製所、おじいちゃんとおばあちゃん、それに若夫婦が経営していたのですが、その若夫婦には男の子が2人で女の子がいなかったのです。 で、縫製所のお婆ちゃんがたいそう私を可愛がってくれて、ただいま〜って帰ると、家の中まで招いておやつをくれました。
3年生、4年生の頃です。 時々、サンプルの服を「朋子ちゃん、お願い、これ、着てみてくれる〜!」 とお婆ちゃんにせがまれ、モデルをする事もありました。
若社長さんは反物から布を裁断するのですが、それをちょっとずつ、ちょっとずつ型紙をつめて裁断すると予定数の服より、1着、2着、多く仕上がったりする事が良くありました。 すると、お婆ちゃんは内緒ねって言って私の母にそれをくださったのです。
そうでなくても残った生地やらボタンやらを貰えるのが母にはとても魅力的だったと思うのですが、デパートで買ったら、かなりのお値段になるはずの子供服を随分いっぱい頂いてました。
と、言うことで母は9時から5時まで7時間ミシンを踏んでいたわけですが、家に帰って夕食が終わってからは、自分のお楽しみ、洋裁の時間をずっと続けていました。
次に何を作ってもらうかを決める私には、アイディアが浮かばない事も度々で、大学生の頃に、スイングトップというジャケット(ジャンパー)を縫ってもらったのですが、それがとてもカッコよくて、次は何? って言われて、じゃ、同じ形で違う色! とお願いしたのです。 結局、スイングトップは赤、青、薄緑、そしてフェイクレザー、と4着も出来ちゃいました。
同じ型紙で同じ物を作りたくなる気持ち、今の私には良くわかります。
パートで7時間もミシンを踏んでいるにも関わらず、家に帰っても、洋裁をし続けた母がどれだけ洋裁が好きだったかが分かります。
私が家を出てからは兄の運営する幼児教室の教材を布で作ったり、幼稚園ができてからは幼稚園生の卒業式用のマントを縫ったりしてました。
父が亡くなってからは相模原市の布おもちゃのサークルに参加して布のおもちゃやら人形やらを作って子供達を遊ばせていました。 市から表彰されたりしてましたよ。
晩年、母が年老いてから、「貴方を育てている時が一番楽しかったわ〜。」 と呟いた事がありました。
4人の姉妹の中で一番器量が悪いと自分の祖母から言われ続けて劣等感の塊みたいな青春を送った母でしたが、思い通りの服を次から次へと作って私に着せた母の子育て時代はそういう意味では楽しかったのかなって思います。
私が20代でもの凄く太ってしまってから、母はそれをもの凄く嫌がりました。 そりゃそうです、自分の服を着てくれるモデルが太ってしまってはダメなんです。 スッキリカッコよく着てくれないと。
洋裁の楽しさが今また芽生えてきた私ですが、シャツがやっとできる位の腕。 ファスナーの付け方なんて忘れてるし・・・・。
母の足元にも及びません。もっと教えてもらっておけば良かった。
今は自分のシャツとジムのシャツ作りを楽しんでます。 布選びもオンラインでできるし、すっごく楽しい!