2025年7月22日火曜日

洋裁 と 母

母は1925年生まれ。 終戦の時に二十歳でした。 凄い時代に生まれ育った母ですが、終戦後母は紳士服のお店で働いていたそうです。
もっとその時の話を聞いておくべきでした・・・・・。
母は親から大学に進学する事を薦められていたそうですが、それが嫌で洋裁の道を選んだようです。 

紳士服作りを学んだ母は本当に洋裁のプロでした。 私が生まれる前には父のビジネススーツ、幼い兄にはボタンダウンのシャツやらショートパンツやら、作っていた様です。

ですが、約7歳はなれて私が生まれると、母の洋裁への情熱は全て私に集中しました。 覚えている限り、父の服や兄の服を作っている母を見たことがありませんでしたから。

幼稚園生だった頃に母が作ってくれたワンピースやスカート、今でも覚えています。 年に一度のピアノの発表会でも母は気合を入れて舞台衣装を作ってくれましたっけ。 
母の着せ替え人形だったのです。 スパンコールを縫い付けたワンピース、フリフリのついたスカート、母にとって私の服作りは生き甲斐そのものだったと思います。 
装苑とかドレスメーカーという洋裁の月刊誌を良く母は買っていました。 そこには子供服の写真とその製図方法が載っていました。 その月刊誌を見て次はどれ? って決めてました。 つまり製図から母はやっていたって事です。

小学校3年生の時に世田谷から相模原に引っ越しました。 で、家の近くに東京のデパートに下ろしたりする子供服を縫っている小さな縫製所があって、母はそこでミシンのパートをする事になります。 9時から5時まで。 歩いて5分もかからない所だったので、お昼休みは家に戻ってランチを食べ、また仕事場へ。 
小学生だった私はランドセルを背負ったまま、家ではなく母のいる縫製所に帰る事もしょっちゅうでした。 母が糸を切ることなく次から次へとミシンをかけるので、私は母のミシンの隣に座り、糸きりバサミを握り糸切りを手伝い、午後5時になるのを待ちました。

その縫製所、おじいちゃんとおばあちゃん、それに若夫婦が経営していたのですが、その若夫婦には男の子が2人で女の子がいなかったのです。 で、縫製所のお婆ちゃんがたいそう私を可愛がってくれて、ただいま〜って帰ると、家の中まで招いておやつをくれました。
3年生、4年生の頃です。 時々、サンプルの服を「朋子ちゃん、お願い、これ、着てみてくれる〜!」 とお婆ちゃんにせがまれ、モデルをする事もありました。 

若社長さんは反物から布を裁断するのですが、それをちょっとずつ、ちょっとずつ型紙をつめて裁断すると予定数の服より、1着、2着、多く仕上がったりする事が良くありました。 すると、お婆ちゃんは内緒ねって言って私の母にそれをくださったのです。 

そうでなくても残った生地やらボタンやらを貰えるのが母にはとても魅力的だったと思うのですが、デパートで買ったら、かなりのお値段になるはずの子供服を随分いっぱい頂いてました。

と、言うことで母は9時から5時まで7時間ミシンを踏んでいたわけですが、家に帰って夕食が終わってからは、自分のお楽しみ、洋裁の時間をずっと続けていました。

次に何を作ってもらうかを決める私には、アイディアが浮かばない事も度々で、大学生の頃に、スイングトップというジャケット(ジャンパー)を縫ってもらったのですが、それがとてもカッコよくて、次は何? って言われて、じゃ、同じ形で違う色! とお願いしたのです。 結局、スイングトップは赤、青、薄緑、そしてフェイクレザー、と4着も出来ちゃいました。

同じ型紙で同じ物を作りたくなる気持ち、今の私には良くわかります。

パートで7時間もミシンを踏んでいるにも関わらず、家に帰っても、洋裁をし続けた母がどれだけ洋裁が好きだったかが分かります。

私が家を出てからは兄の運営する幼児教室の教材を布で作ったり、幼稚園ができてからは幼稚園生の卒業式用のマントを縫ったりしてました。 

父が亡くなってからは相模原市の布おもちゃのサークルに参加して布のおもちゃやら人形やらを作って子供達を遊ばせていました。 市から表彰されたりしてましたよ。

晩年、母が年老いてから、「貴方を育てている時が一番楽しかったわ〜。」 と呟いた事がありました。 

4人の姉妹の中で一番器量が悪いと自分の祖母から言われ続けて劣等感の塊みたいな青春を送った母でしたが、思い通りの服を次から次へと作って私に着せた母の子育て時代はそういう意味では楽しかったのかなって思います。 

私が20代でもの凄く太ってしまってから、母はそれをもの凄く嫌がりました。 そりゃそうです、自分の服を着てくれるモデルが太ってしまってはダメなんです。 スッキリカッコよく着てくれないと。

洋裁の楽しさが今また芽生えてきた私ですが、シャツがやっとできる位の腕。 ファスナーの付け方なんて忘れてるし・・・・。
母の足元にも及びません。もっと教えてもらっておけば良かった。

今は自分のシャツとジムのシャツ作りを楽しんでます。 布選びもオンラインでできるし、すっごく楽しい!















2025年7月18日金曜日

洋裁 熱

ソーイングがしたい! っという切なる欲求が湧き上がってきて今夢中になっています。

オンラインでパターンをPDFでダウンロードしてそれを自分の家のプリンターでプリントします。 上手くできているもので、レターサイズで印刷してそのまま紙のエッジを切る事なく、ラインにそってテープで繋いでいくと実物大の型紙になります。 全部で25ページ程になってしまいますが・・・・。
よく出来ているなって思うのは1つの型紙を購入するとあらゆサイズのラインが色違いで一つの画面に出てきます。 これだと自分のサイズのラインを辿ってカットするのは容易ではありません。 アクロバットリーダーのレイヤー機能を活用して、自分以外のサイズのラインを見えなくするのです。 つまり自分以外のサイズのラインを非表示にする。 すると、自分のラインだけになって印刷、カットが簡単にできるのです。

だけど、私のiPadでこのレイヤー機能を使おうとしたらダメでした。 アクロバットリーダー、iPad上ではレイヤー機能が使えないのだそうです。 それが分かるまで結構時間を費やしてしまいました。
今はパターンをプリントする時はジムのラップトップを使わせてもらい、プリントしてます。

先ず最初にコットンとリネン混紡の生地で私のシャツを作りました。 色々パターンを検索して、アロハシャツタイプを探しましたが、どれも好みのタイプではなく、最終的に辿り着いたのがラグラン袖のシャツの型紙でした。
これを購入して、ダウンロード、カット、そして一度洗濯した生地を裁断しました。ラグランスリーブってカッコいいのだけど、襟つけが結構難しいです。

何十年ぶりの洋裁。 大学を卒業した私は就職せずに昼間アルバイトして夜、文化服装学院に行きました。 あの時の若かった自分がなんだ懐かしい・・・・・。 
とにかくカッカカッカとエネルギーがありました。 昼間8時間バイトをして、夜は洋裁学校。 で、その洋裁学校が楽しかった〜〜。
楽し過ぎて、楽し過ぎて、夜寝る時間も惜しんで、絵を描いたり宿題をしたり、なんかこう〜学芸大での学生生活の鬱憤を晴らすかのように、洋裁学校のプロジェクトに没頭してました。 私の道はこれだ〜〜〜! とばかりに。

あまりにも没頭し過ぎて、1週間で20時間くらいしか寝てなかったんじゃないかな? 

その結果、なんと、私、身体を壊しました。 自律神経失調症です。 電車に乗るのも辛い。 立っているのも辛い。 医者に行ってもどこも悪くないって言われるし・・・・・。 そんなはずがないのに。 生きた心地がしませんでした。 足が地面についてない感じ。

そんなふらふらな状態が数ヶ月続き、で、ヒョンな調子に体調が戻ったのです。 何が引き金だったのか? とにかく普通に戻った。
もう2度とあのフラフラ状態にはなりたくないってそう、強く思いました。 今思えば、昼と夜が逆転したような生活でしたし、タバコも吸ってたし、寝てなかったし・・・・。 自分の体力を過信して身体が悲鳴を上げたのです。  23〜4歳の頃、自分の体力の限界を知りました。

文化では木綿のワンピース、シャツブラース、そしてスーツの縫い方を学びました。 製図の仕方も習いましたが、全部忘れました。

今何が作れるかって言われたら、シャツくらいです。

で、40年ぶりに洋裁がしたくなったのです。
これまで勢いで自分のシャツを3つ、ジムのシャツを1つ完成させました。
久しぶりのミシンだったので、色々問題に遭遇。 針や糸の太さだったり、糸調子だったり、ジグザグミシンの調子だったり・・・・。
感を取り戻すのに、しばらくかかってしまいました。

第一作目、これは日本製の生地でコットンとリネンの混紡。 すったもんだの末にやっとできた! だけどこれ、出来上がりがピシッとしてて形が綺麗。

選んだ型紙の大きさがちょっとだけ小さいような気がするのです。 ピッタリしてカッコいいのだけど、アームホールがちょっとだけ小さい気がして・・・・。
二作目は1つサイズを上げました。

生地はオンラインで見つけたコットンポプリン。 この生地は薄手でシャツにはベストかなって思ったのだけど、シャキシャキし過ぎ。
なんだか身体に馴染みません。

2つ作っちゃいました。 3つ同じ形のシャツですが、3回やっても襟のところ、見返しが上手くいかなくて、まだ満足していません。

こちらのモンキー柄を裁断し始めた時にジムが私のところにきて、なんだかモジモジ・・・・・。
「モンキーは嫌いなんだけど、これってもしかして僕の?」と聞いたのです。
次のシャツがモンキー柄で、自分のシャツだったらどうしよう!って考えたようです。
「心配ない、これ、私のだから。 あ、あなた申年生まれだったわね、バッチリじゃない、あなたのシャツもこれで作ろうか?」って言っておきました。


これ、すっごく可愛いです、 今のお気に入り! 襟はまだ満足してないけど・・・・・。


で、4作目にジムのシャツを縫いました。 これは違うデザインの勿論、男性用。
で、ここで問題が。

ジムのウエストサイズが異常に大きいのです。 ウエストサイズに合わせると、着丈も肩幅ももの凄く大きくなってしまうのです。
かと言って、ウエストサイズを小さめに選んだら、このストレッチしない木綿では座った時にお腹のボタンが飛んでいってしまいそうだし・・・・・。
着心地が悪いと、絶対に着てもらえない。 そう思った私はウェストのサイズで型紙のサイズを選びました。 なんと3X。

恐れていたことが・・・・・。 巨大なのです。 出来上がりが。

やっぱりもう1つ小さいサイズ2Xにしておけば良かった。

とにかく出来上がってしまったので、これはたぶん、クローゼットの肥やしになる覚悟です。

ジムはあまりに肩のあたりが大きいので、お茶らけています。 「はいはい、どうせ気に入らないから着てくれないよね。 私のパジャマにするからいいです!」って私のクローゼットに入れようとすると・・・・・。

私が機嫌を損ねて怒り出すのを恐れたジムは・・・・・。
「いや、これは凄くいいシャツだと思うよ。 ただ僕は洋服に関して疎いからさ・・・・・。どう評価していいのか・・・・。」だそうです。

とにかくもう1つ小さいサイズで次は少しストレッチ素材が入ったもので作ってみようかと思います。

これ、身長が180センチ以上の男性が着たら凄くかっこいいはず!

母が次から次へと洋裁をし続けたあの気持ちが今少し理解出来ます。
だって、楽しいんだもん












2025年7月9日水曜日

股関節手術から2ヶ月経過

明日7月15日で股関節手術からちょうど2ヶ月が経過します。 
現状は? と言うと・・・・・。 朝、晩、まだびっこひいてます。 歩行、車の運転は問題ないのですが、ずっと座ったままだった後、立ち上がると足がもつれてちゃんと歩けません。 ロキの散歩は毎日ジムと一緒に行ってますが、帰り道はスピードが落ちて、歩くのがゆっくりになってしまいます。 特に上り坂はキツイ。
靴下を履くのも右足はできません。 爪切りもできません。 つまり膝を胸に近づける動作ができないのです。
靴下を履くためのキット、買っておいて大正解でした。 昨日はジムが履かせてくれましたが、毎日お願いするのは流石に気が咎めるので、自分で履いてます。

一昨日のリハビリでは急にメニューがバージョンアップしたのか? 新しいメニューが加わり、よりハードなエクササイズになりました。
いつもは35分程度で終了するのに、この日は55分。 ずっと運動してました。 汗かいた。 足首に900グラムの錘を付けられてテーブルの上に横たわり、片膝をまげ、片足を膝の高さまで持ち上げる運動だったり、片足をあげて一本足で30秒バランスをとるエクササイズだったり、これって何かの罰ゲームですか? って思っちゃう。

リハビリは全部で16セッション、保険がカバーしてくれるとのこと。 10回でストップして、残りの6回は今後12月末までに何か起こった時の為にとっておくか、今回全部使い切るか? という選択があったので、私は全部使い切ることにしました。 だって、もうこの先手術の予定はないし、怪我だってしないもの。

術後2ヶ月が経過してもこんなにまだ不自由なの? って思ってしまいます。 朝、夕方、痛いから。
一昨日はジムとロキ、3人でレッドウッドマウンテンを1時間半歩きました。 この時は朝、ちょっと痛いなって思っていたので痛み止めを飲んで出かけたせいか、全然痛みを感じずに9000歩くらい歩くことができました。 このトレイル、20年前はジムと2人、走ってたんだな〜って思いながら。 20年経つと、人間の身体ってこう変化するんだな〜。 歳をとるっとこういうことなんだな〜って思いながら。


とはいえ、まだまだこの先この身体で生きていくわけですから。 筋肉を維持しながら怪我しないように。

最近発見したこと!

術後、血圧が80台/40台 まで低下してしまう事があり、水を飲む事を心がけてました。 1日2リットル飲むんです。
これ、以前も試してみたのですが、なんせ2リットルって凄い量で、お腹がタプタプしてトイレばっかり行く羽目になり断念していました。 ですが、今回こまめに給水して夜7時までに2リットルを飲む習慣が定着してきて、すると不思議な事に自分の身体が水を要求していることに気づくようになったのです。

で、もっと驚いた事に、体重がジワジワと減り出した! 今まで何をトライしてもビクとも減らなかった体重が、2リットルの水を飲み始めてからジワジワと減ってきてます。 リハビリで筋肉量が増えている事も影響しているのか? とにかく3食、しっかり食べても体重が増えません。 それも好きなもの食べてるし。
これには本当にびっくりです。 ただ外出する時やドライブする時には水を飲み続けるとトイレの心配がありますが・・・・。
特に起床後、身体が水を欲している事に気づくようになって、午前中に1リットル飲み終えるようにしています。

久々の57キロ台の体重になってきたぞ〜〜〜! 

お水2リットルとタンパク質。 これで理想体重を目指したいと思います。

久々のトレイルで目をキラキラさせてハッピーなロキでした。










2025年6月29日日曜日

天からの贈り物

早く洋裁がしたくてウズウズしている私は洋裁に必要な小物をアマゾンでオーダーしました。

この日デリバリー予定である洋裁用品は4つ。
デリバリードライバーさんは品物を届けた後、必ずここに置きました〜! って言う証拠写真をメールで送ってくれます。
この日私には3つのデリバリーノーティスとして3つの箱やら袋やらがゲートの周辺に山ずつになっている写真が届きました。3回のメールで。

来た来た〜と思い荷物を手に取ると、3つのうち1つは私の名前ではなくて知らない人の名前と住所がラベルに書かれていて、明らかに配達間違いです。 お隣近所の住所ではないので、ちょっとあり得ないmistake。 

その他2つのパッケージには私のオーダーした物が3つ入っていました。 ですが、カーボンペーパーが届いてない!

多分、カーボンペーパーのパッケージとこの見知らぬ男性のパッケージがすり替わってしまったのでしょう。

ジムはもしかしたらドライバーが間違いに気づいて戻ってくるかもしれないからと、多分中身はシューズボックス? と思われるそのパッケージをゲートの外に置きました。 万が一、ドライバーが戻ってくる事を期待して。

で、私は・・・・・。 アマゾンからのメッセージをもう一度確認したのです。 写真と同時に、デリバリー完了、っていうメールです。
アマゾンにはその写真についてメッセージを送れるシステムがあります。
写真ではデリバリー完了ってなってますが、品物は届いてません・・・・ 等の選択肢を選んで送信。
それプラス、チャットができる様になっていたので、チャットをスタートさせました。

これこれこういうわけで、3つのパッケージのうち2つは私のオーダーした物ですが、1つは別の住所宛で私のオーダーした物ではありません。 それにカーボンペーパーは配達完了ってなってますが、これがミッシングしています。 

すると、ですね・・・・・。 多分、AIなのかな? 返信してくれたのは????

ご迷惑をお掛けしてます。 覚えのない品物が届いてしまったのですね。 それはどうぞ、そのままキープしてください。 ドーネーションするなり、あなたが使うなり、もしくは貴方のご主人へのプレゼントにするとか?  とにかく返品しなくて良いです。キープしてください。

そう言うのですよ・・・・。

ジムにそれを伝えると、なんだか悪戯っ子の顔になって、なになに? 僕は今日、何を貰ったのかな〜〜? と言ってゲートの外に置いておいたパッケージを取りに行ったのです。 宛名の名前が男性だったので、それにビニール袋の中のがどうやらシューズの箱の様なので、ジムはちょっとウキウキした様子。

だけど、男性用のシューズだったとしても、星の数ほど靴の種類があるわけで、子供用?大人用? サッカーシューズ? サイズは?


ジムがパッケージを持って家に戻ってきました。 外装の袋を破った時のジムの顔ったら。 KEEN だ! え〜〜っとサイズは????

あ〜〜〜、僕のサイズ!!!! 満面の笑顔。

箱を開けてみると中には男性用Keenのハイキングシューズが入ってました。 それも、それもですよ、ジムの今現在履いているキーンのハイキングシューズと同じタイプ。 で、今履いてるのがくたびれてきちゃって、もうそろそろ買い替え? って言うタイミング。

『これって僕の大好きなブランドの大好きなスタイルで、で、もって僕のサイズ〜〜〜〜!』 とはしゃぎだすジム。

ちょっと待ってよ・・・・。 この段階で、私はまだ懐疑的。 ちょっとギルティー・・・。
でも、でもです、私、ちゃんと言ったよね、AIだか人間だかに。 違う住所宛の私のオーダーじゃない物が届きましたって。
なんで、AIがご主人へのプレゼントにでも、なんて言ったのか? これまた偶然?


とにかくJimは暗〜〜イ顔してたのに、一気に元気になってハイキングシューズを履いてはしゃぎまわるのです。
もしもドライバーさんが間違いに気づいて取りに来たら、どうするの? って私が問いかけると、『じゃ、僕の古くなったキーンを箱に入れて手渡すってのはどう? ハハハハは〜〜!』 だって。


と、言うことで、この国、デリバリーの間違いに関しては、とっても寛容なのです。
以前、寸法を間違えてオーダーしてしまったカスタムメイドのシェードだって、間違ったサイズで届けられた品物は返品しなくて良いです。 ってことで新しいのが送られてきました。

多分アマゾンなんかでは間違いのデリバリーは結構あるんじゃないのかな? それをいちいち回収しているよりは、新しい物を送りなおした方が時間と手間、コストがかからない、って事でしょう。

その夜アマゾンでジムのこのシューズを調べたところ、154ドルもする商品でした。 この日、この靴が届くのを心待ちしていたその男性はきっとがっかりした事でしょうね。 で、アマゾンはあれ? 今日、配達予定だったのに品物がないぞ、ってことに気づいて、翌日、また同じ商品を送ってくるのでしょう。 ってことは皆、これでハッピーだ。 私がギルティ〜を感じる必要はなし。

で、私が待っていたカーボンペーパー、ジムのキーンシューズとすり替わってしまった5ドルのカーボンペーパーは多分ですが、配達の最後にトラックの荷台に置き去りになっているのでしょう。

これ、届いていません、とチャット主張したので、明日また新しいのが送られてきます。

天から降ってきた贈り物。 こう言うのってあるんだね!









ソーイングがしたい〜!

昨今ピアノの練習に集中して一日合計2〜3時間は練習しています。 
曲奏云々ではなく、タッチ問題が永遠に続いているのです。 そもそも今、股関節の手術をしようと思った主な理由といえば右の肩甲骨が思うように動かない。 これが演奏するときにとても重要で、右手だけ変に力が入ってしまうのです。 左手はリラックスしているのにです。 プラス右足でペダルを踏む時、重心が足の中心ではなく外側にずれてしまう問題、これらの問題全てが私の不自由な右股関節からきているのでは?と自分なりに分析したからなのです。 

手術後6週間が経過してピアノの練習を再開しています。 体の変化は? 右足のペダルの重心は外側にずれなくなりました。 してやったり。 これができるとハムストリング(太ももの裏側)に緊張ができて太ももの前側をリラックスする事ができます。 
丹田ではなくて背骨に意識を置いて背中から指が生えているかのように弾く! これがゴール。

まだ背中から指が生えている感覚までは到達していませんが、右肩の可動域が広がったような気がします。 

次回十月十日の発表会までに新しい演奏スタイルに到達できると嬉しいです。

で、ピアノの練習だけでは行き詰ってしまうので、ソーイングを再開したいと思い、色々お道具を買い揃えています。

そもそも2019年のクリスマスにジムがプレゼントしてくれたシンガーのミシン。 これ、優れ物。 眠らせておくのはもったいない。
ミシン用のデスクは去年サンタさんにお願いしていたのでミシン用のデスクはオッケー。 ですが作業用のテーブルがありません。
160センチくらいの幅のテーブルってない? とジムに聞くと、コンテナーから古〜〜イテーブル2つを出してきてくれました。 
え〜〜〜〜これ〜〜〜? っていう代物。 足が錆びてる・・・・・。 ヤスリをかけてペンキ塗ったら? とジム。
え〜〜〜〜・・・・。 創作意欲が一気に急降下する提案です。 物を大事にするジムは古くても全部取っておく主義なのです。
これらのテーブルをお断りする理由を考えました。
!!!閃いた!!! そもそも洋裁に使用する布は5フィート つまり150センチ以上の長さがあってそれをテーブルに置いて型紙から裁断するので、最低でも5フィートの長さが必要!

という事でジムも納得。 

これもオンラインでオーダーしました。 翌日、箱詰もなしでテーブルがそのままデリバリーされてきました。 使わない時は半分に折りたためて私でも簡単に持ち運びできる簡易テーブル。 50ドル。good choice でした。

その他、裁断用のハサミだとかルーラーだとか、細かい物を色々買い揃え、布、芯地はオンラインで。

昨今洋裁用の型紙もオンラインでPDFでダウンロードできます。 大きな紙がないので、レターサイズのプリントペーパーで何十枚もプリントして、それをテープで貼り付け、実物大の型紙を切り抜くという方法です。
まずは私のシャツを作りたいと思います。 

色々周り道したけど、やっぱり巡り巡って原点に戻るんだね。 ピアノと洋裁・・・・・。





2025年6月19日木曜日

TOMO のチェリーツリー

私のブログは自分の日記だと思って更新しているのですが、庭の2本のチェリーツリーについて、確か以前にもブログに書いた覚えがありました。 自分のブログ上で検索してみたら、ありました!
2020年のブログに初めてさくらんぼが実って喜んでいた矢先に鳥に全部食べられてしまったと書いてありました。
2023年には鳥の被害を防ぐためにジムと2人でフルーツの木専用の大きなネットをサンクランボの木に被せたおかげで、小さなボールにいっぱいのチェリーの収穫ができました。

で、去年はちょっと不作・・・・・。

2025年今年は今まで一番収穫が多かった。

思えばこのさくらんぼの木は多分、植えてから20年程経っているのです。 ジムと私の歴史でもあるこのサンクランボの木。

以前のブログを読み返すと、記憶が蘇ってきます。 そう、夫婦喧嘩の末に私が家を飛び出して、数日後家に戻ると、庭の片隅に小さな桜の木が3本植えられてた。 多分、2005年か2006年の事だったと思います。 小さな弱々しい木でした。 私がサクランボが家で採れたら最高! って言っていたのを思い出して植えたのか? 偶然だったのかは知る由もありません。

数年後私たちは家を貸し出して海外へ。 それが2007年です。 庭の桜の木は誰が管理するでもなし、ほったらかしになっていました。

それから私たちが実際にアロマスの家に完全に戻ったのは2023年5月ですから・・・・・。かれこれ20年が経ったのです。
3本の木のうち、一本は枯れてしまいました。 ですが残った2本は力強く成長してくれました。

チェリー、今年の収穫はすごいです。 まずは先に熟するビングから採れたチェリー。 
プクプクに太った水々しい実は最高! 昨日殆どを収穫しました。 残りは10個くらいかな? 

ルビーの様な実が全てとられてしまった後の桜の木は何事もなかったように又緑色に戻る。 この時がなんだか寂しい・・・・・。
又来年お願いね、って呟きながら。

もう一本の木はビングじゃないってJIMは言ってます。 最初黄色く実って、時間と共にダークレッドに変わります。 あと1週間程で収穫です。


一度めの収穫


2度目の収穫で殆ど全部 取っちゃいました







2025年6月17日火曜日

日光金谷ホテル

ヒョンな事から日光金谷ホテルの歴史について調べてみた。

私の両親は2人共に栃木県日光市の生まれです。

で、母方のお爺ちゃんについて思いを巡らせました。 お爺ちゃんについてもっと詳しく母に聞いておくべきだったと後悔しても始まらず・・・・。 金谷ホテルのウェブ上の情報と、私の想像を元にすごい事に気がつきました。


お爺ちゃん、村野 惣吉さんは親1人子1人で育ち、小学校しか出ていなかったそうなのです。 ですが、小学生の頃から日光金谷ホテルで丁稚として働き、当時外国人の宿泊客が多かった金谷ホテルで耳から英語を覚え、終戦後は通訳の免許まで取リ、日光のガイドブックを作ったり、ガイドとして外国人と一緒に日本を旅したりしていたそうなのです。 ここまでは母から聞いて知ってましたよ、私。

で、今回発見したのが・・・・金谷ホテルの歴史のページに出てくる錚々たる歴史上の有名人の事。
ヘレンケラー、チャップリン、これは知ってた!でもアインシュタイン、リンドバーグ、ガンジー これら教科書に出てくるような有名人がお爺ちゃんが働いていた頃に滞在していたらしいって事。

ここからはguessing  game なのだけど、母が生まれたのが1925年、という事はお爺ちゃんがその時30歳だったとしたら、お爺ちゃんの生まれたのは1895年頃だと想像がつきます。 多分、もう少し若いかな?

で、戦前だとアインシュタインが滞在していたのが1921年、リンドバーグが1931年、チャップリンが1932年、ヘレンケラーが1937年です。
と、いう事はその頃お爺ちゃんは金谷ホテルに勤めていて、年齢的に26歳から42歳? 

アイゼンハワーが滞在したのが終戦後で1946年。 マッカーサーも終戦直後に日光に来ているようで(ホテルの記録にはマッカーサーの名前はありません)マッカーサーの写っている写真の隅っこにお爺ちゃんがスーツを着て立っている写真が残っているので、私の想像上の計算だとお爺ちゃん51歳。 まだ元気だった。

私が生まれる2年前の1957年には昭和天皇と皇后様が滞在されていて、同じ年にガンジーも滞在してる。 
私の記憶の中にいるお爺ちゃんは脳溢血の後遺症で半身不随になってしまい、日本中を通訳として旅した頃の面影はゼロでした。
お爺ちゃんが何歳のときに倒れたのか? それもはっきりしないのだけれど、終戦後、マッカーサーが来たときはまだ健全だった。 それは確かなのです。

と、いう事はもしかして、お爺ちゃん、これらの錚々たる歴史上の人物と直に会っていたのでは? もちろんホテルマンだから個人的に会うわけではないけれど、それにしたってアインシュタイン、ヘレンケラー、チャップリン! お爺ちゃん、写真が欲しかった〜〜〜〜!

終戦後、GHQが観光地である日光に来たとき、通訳が必要だってことで、お爺ちゃんはとても引っ張りダコだったそうなのです。
君の発音はとても素晴らしい! と褒められていたとか。 
お爺ちゃん、あっぱれ! 

お爺ちゃん、脳溢血で倒れた後、お医者さんが『亡くなられました。』 と宣言してお爺ちゃんの口に詰め物をした・・・・その直後。
昼寝をしていた幼いお兄ちゃんが突然泣き出した。 なんでも夢の中に白い着物を着た人がドアを叩いて、『入れてくれ、入れてくれ!』 と無理やり入ってきた・・・・。 と幼い兄は泣き叫んだそうなのです。

で、この時、お医者さんが死亡を宣言していたお爺ちゃん、急に息を吹き返したと。 其の後、お爺ちゃんは10年以上生きたのです。
私の想像だとお爺ちゃんが倒れたのは63歳くらいだったのでは? 

という事で兄はお爺ちゃんと魂で繋がっているって思うところがある様です。 2人ともに英語に関係してる。
お爺ちゃんは学歴こそなかったけれど、通訳になれる程の英語力とビジネスセンスもあったようで、お婆ちゃんに東照宮の麓で大きなお土産屋さんをやらせたり、バス会社を立ち上げたり、と色々頑張ったそうなのです。

そうだ、今度帰国した時に母の一番下の妹(私の叔母)にお爺ちゃんについて聞いてこよう! 4人姉妹のうち残っているのは一番したの叔母1人になってしまったので・・・・。